昭和46年12月18日 朝の御理解
御神訓 一、
「大酒大食するは絶食の元になる」「何を食うにも飲むにも、有難く頂く心を忘れなよ」「体の丈夫を願え、体を作れ、何事も体が元なり。」
是はずっと食物訓ですね。とりわけ食物が食べられなくなると、絶食の元になる。ですから、どう云う事だろうかと思うですね。大酒大食は絶食の元になると。あまり飲み過ぎて二日酔いして、翌くる日はもう食べ物をみろう事もないごとなる。大食をして胃を壊して、結局一碗のおかゆすら食べられなくなると。ですから是はどう云う事かと云うと、無茶してはならないと云う事だと思いますね。無茶苦茶と云う。
お酒の例えば強い人、又はお酒を全く頂かない人、お酒を全然頂けない人は、本当に盃何杯か飲んでも体がきつうなる。所がお酒の強い人は例えば一升の酒を飲んでも、かえって気分が良くなって食事がおいしいと云う云う様な人もある。だから是は量の問題ではないと思うですね。沢山の酒を飲んで自分の云うならば、体が銘々の体が中心である。一合がやっとの人もあれば盃何杯の人もあれば、沢山の五合も一升もと云う人もある。ですからそういう大酒と云うが、大酒を飲むと云う事ではない。
問題は体が中心です。その体に適量の酒と云う事になりましょう。全然飲めない人から、頂く人をみると随分酒が強い。だからそれは大酒をすると云う事ではない。適量云う事が問題になるのです。どれだけが丁度適量かと云う事。お酒ならお酒を頂く、沢山の例えば食べ物を食べると、それが明日までも残る様な頂き方。夕べは一寸飲みすぎて、今日は食べうごとなかと云うのは、大酒大食した訳です。
私共も随分お酒も頂くし、食べ物も誰よりも胃袋が大きいと定評のある私、私のの大食は定評があるのですけども、私は夜食なんかした翌朝は非常に爽快なんです気分が。寝がけそげん食べなさるなら、とても明日はいかんと云う事がない。云うならば沢山頂いた時にはかえって翌る日は気分が良い。爽快である。ですから大食にはならない訳です。けれども昨夜は一杯御飯を食べ過ぎたから、一つ餅を余分に食べ過ぎたからもう、胸につかえるとると云う人がある。とするならば、それは大食である。
だから是は量ではない事がわかる。明日の例えば御用にです、差し支えがないと云う事が基準にならなければならんと思う。そこで頂き方なんですね。食物はわが心で毒にも薬にもなるものだと、例えて申しますと、私は糖尿病、糖尿病と云う病気は、もう食事療法以外にないと云われておる。療法は、ですから少しばかりの食事を取って、甘い物やら辛い物やらは、厳禁されている訳です、現代の医学から云うと。所が私は人がたまがる様に御飯も頂きますし、又は甘い物も頂きますし、それからお酒も頂く。
それで例え私がおかげを頂いとるとするならば、我が心で頂いたものが全部薬になりよると云う事ですね。床尾が甘いものを食べれば辛いものを飲めば、益々病気がひどうなって、行くとするとです、それは食べ物がかえって体の毒になると云う事になります。其処でどう云う事になるかと云うと、我が心で食物が毒にも薬にもなる、お酒でも頂きようで百薬の長にもなりゃ、絶食の元にもなる。
其処で自分の頂けると云うか許されておる範囲と云うか、其処はやはり知るべきだと思う。私は例えば、食膳に沢山の御馳走が出ると致しますが、ですから是は神様が私に許されて頂いておるものだからと思うて、何でも綺麗に頂く。最近は始末倹約の御理解を頂いて、その朝から朝のお食事でも、夜のお食事でも、お菜を一品でも二品でも、少なく注ぐ様に、又盛り方でも少しづつ盛る様に家内に言っております。
だからまー三皿も四皿もある時には、ほんの少しづつにして、人間ちゃ不思議なもので、一杯注いであれば勿体ないと思うてから食べてしまう。最後の一碗位は茶漬けでお漬物で頂けれる様に、少しは足らない位に云うて、家内に云っておりますが、仲々調子が良いです。いわゆる盛沢山に致しますとつい頂き過ぎる。人間と言う物がだからその自分の前に出されておる、それか許されておると云うても、何時も何と云いますかね、勿体ないと云う気持ちを持って頂くと、一品くらいは箸をつけないで下げる。
其処に何かそこう、そう云う節度を付けておくと良いですね。私、昨夜もお食事させて頂く、此の頃は嫁が晩の御給仕をしてくれます。若い綺麗な嫁がお給仕をしてくれますから、やはり美味しい。まあ本当に良子さんが傍でお給仕しながら思うだろうと思うのですけど、はじめから最後までどれだけ美味しい、美味しいと私が云うか解からん。又有難いと云う事をどれ程、有難いと何べんいうか解からん程に有難いと美味しいの連発です。そしてお食事を終わらして貰う。
私は思うにねとにかく美味しい、美味しいと云って頂く頂き方、有り難い有り難いと云うて云う頂き方、其処には、食物が毒になる様な事が無く、薬になる様なおかげを頂く。だからそれが、よし大食の様あっても、それは絶食の元になるどころかいよいよ血に肉になって行く働き。所がそれが不平であったり、不足であったり、今日は一杯飲まにゃもやもやしたけんで云うて、やけ酒を飲む様ないわゆる頂き方、そう云う頂き方をすれば、必ず食物は毒になる。
障らぬ健康の時には障らない様に感じておりますけど、それが溜り、溜まって、やはり絶食の元になる。ですから無茶苦茶とはそう云う事だと思う。いわゆる無茶飲みをする、無茶食いをすると云うのは、いわば不平不足で、云うならば、やけのやんぱちで飲んだりすると云う事だと、それが絶食の元になる。人間はいわゆる障子一重がままならぬ人の身と、その障子一重がままならぬ人の身である。そう云う世界に住まわせて頂いておる、そう云う人間の実相です。それが人間の本当の姿なのである。
と云う事を私共が解からせて頂いて、食物は命の為に神様が作り与えて下さってあるんだと云う事を思うたら、辛いの甘いのと云うのでなくて、成程障子一重がままならぬ人の身である様に、何が栄養になるやらならぬやら解からない。けれどもその頂き方と言う物が、有難く頂く事によってです、薬になると云う事は、食物の体とのタイミングと云うでしょうか、所謂神ながらな有難い頂き方と言う物が、体がその時必要な物が、体が求めておる物を、お繰り合わせを頂いて、頂ける様なおかげを頂かねばならぬ。
例えて云うと秘結なら秘結をした、けれどもその頂き様が間違いない有難い勿体もい有難い有難い、美味しい、美味しいと云うて頂ける内容であるならです、其処に神様がお繰り合わせを下さる。少し位例えば下痢を伴う様な食物を下さるとする。そうすると秘結が緩和される訳。是はもう不思議な位に私は自分の体でそれを体験致します。いわゆる体の調子が良い、順調になる訳です。始めから、是はいけん、あれはいけんと自分の体には何が障ると言った様な、考え方が毒になるのです。
いわゆる頂き方一つである。大酒大食するは絶食の元になると。昨日あるお届けを聞かせて頂いたんですけれども、大変な財産家であります。やはりもう何億と云う億のつく財産家である。所がね、何時の間に出来たか解らない様な借金がやっぱり何億と出来ておった。 整理したら何にも残らないだろう、残らないどころかかえって足らん様になるかしれん。何億の財産と云うても、例えば、田地田畑の事ですから、さあ売ると云えば叩かれる。何億の財産を自分は財産家であると思うておったのが。
何時それが無くなってしまうか風前の灯と言った様な感じの所のお届けをさせて頂いたんですけど、それがどう云う事で、そう云う事になったんかと云うと、いわゆる無茶苦茶をしておられる。金があるに任せていわゆる無茶苦茶な事をしておる。それがこの位の事、この位の事と云うのが、溜りに溜まっていよいよ首がまわらん、手が出らん足が出らんと云う様になってです。
云うならば、無茶苦茶な頂き方をして、絶食の元になって、もう手も出らん、足も出らん布団の牢の中に入ってしまわなければならない様にです、是は経済の上にでも同じ事が言えるのです。大酒大食をする、絶食の元になる様な頂き方、それを無茶苦茶、もう実に話を聞けば聞く程、成程無茶をしておられる。そこで私共がね、大酒大食をすると云う事が絶食の元になるのではなくて、自分の、云うならば一合しかお酒を頂けないものがです、二合頂く所に是が無茶ですから、それが絶食の元になる。
ですから其処と所を信心させて頂いて、万事万端繰り合わせ頂いてタイミングよう頂いて行く、頂き方と。昨日合楽会で御座いましたけど、中で例えば私共の行き方が、間違いのない生き方をさして頂く事の為に、例えば日々が、引いたり足したりさせて頂きながらいわゆる、有難いと云う答えがまだ是で許されておる、間違いないなと言った様な答えを出しながら、日常生活をさして頂くと云うお話をさせて頂いたら。
それは具体的に云うてどう云う事でしょうかと云う云う質問がありました。それで例えて云うならね、私が今日久留米に行きたいなあとこう思う、まあ、例えて云うと、だから神様にお願いさせて頂いとったら丁度久留米行きの人がお参りして来ておって、なら、それに便乗させて頂いたと云う事になる。その時に私の心の中に、ははあ今日の私の久留米行きは、間違いではなかったなあとこう思う、答えが出てきた訳である。
途中とてもやはりその事を思うて、行きよった、所がそれを妨げるように赤の信号機にぶっつかった。あ,是は間違っとったかなと思うて、お詫びをしながらやらせて頂きよると、後は青々と青のシグナルが出て何の障害もなしに進んで行けれる。そして自分の用件を久留米で済ます具合がです、もう何とも云えんスム-ズな頂きかた、スム-ズな事になっておれば、あ、今日はこれは許されておったな、例えばそれが遊びであっても、許されて遊んだなと思う。
だから有難いなあ一分一厘間違いのない働きの中に、今日は久留米で一日遊ばせて頂いたと云う事になる。私が云うのはそう云う意味なのですよと話した事でしたけれども、今日の御理解から云うてもそう、たまには五酌の酒を飲んでも、もう後飲みたくない様な事がある。三合のんでも五合なんでも美味しい、美味しいと云う時がある。自分の気分の良い人と頂く時なんかは、自分がたまがる程頂く事がある又食べる事がある。
けれども、其処には何時も神様の間違いのない働きを、其処に見極めながら頂いておる。宴会なんかでもどうも気分の悪い時は全然頂けない。そう云う時に私は、一升飲めるから一升飲むと言った様な行き方をすると間違う。それが無茶である。けれども今日は気分が良う飲める、おいしゅう飲めると有難いであり、勿体ないであり、それこそ雰囲気が素晴らしいければ素晴らしい程に、有難い雰囲気の中に酩酊させて貰うて、そして翌日はケロッとして、翌日御用に差し支えないと云う頂き方。
そう云う頂き方がです、私は大事だと思う訳であります。私が一升飲めるからど何処に行っても、一升飲むと云う事ではない。それは私が久留米に行きたい、久留米行きをする場合です、許されておるなと、実感させて頂くから有難い、勿体ないで久留米へ行って遊んで来ると、例えて云うと、今日は許されておった、今日は神様のおかげを頂いて、愉快でした。有難とう御座いましたとこう云うてお礼が言えれる。食べ物の場合であっても、それが又は、飲み物の場合であっても同じ事が言えれる。
そう云う頂き方をおたがい身に付けて行く。それが信心生活である。その根本になるものが障子一重がままならぬ人の身であると云う事、何が薬になるやら毒になるやらわからない。しかも人間生身を持っておる事ですから、先程秘結の話を致しましたが、秘結だから、秘結に効く薬を飲むとかわざわざ、それに良い食べ物と云うのではなくて、神ながらにです、秘結しておる時には、秘結が緩和する様な食べ物を、神様がちゃんと下さる様なお繰り合わせ、お繰り合わせの中に頂く。
いわゆる許されて飲むのであり、許されて頂くのである。其処には有難い物、勿体ないと言う物だけ、成程食物はその様な事にして薬になって行く。成程その様にして反対の頂きに毒になる、いわゆる絶食の元になる様な事になる。成程金が沢山あれば、いわゆる金の徳を持っておる人でありましょうから、それを使う事がどうと云う事ではない。けれども、その使い方が無茶苦茶である。強引に久留米に遊びに行きたいと思うたら、さぁハイヤ-呼んで、さぁ其処でそのお気付けを頂いておっても。
お気付けをお気付けとも感じすに、もうがむしゃらに行って遊んで来る。向こうではもう右と思った事は左、左と思った事は右と云うて、ちぐはぐな中に今日は遊びに行ったばってん、いっちょも面白うなかったと云う様な事で帰って来る。そう云う様な事ではです、それが溜りに溜まって、それが無茶になりますから、絶食の元になる様な事になる。いよいよ崩壊しだしたら、何億の財産があっておってもです。
そう云う無茶な事をしているから、いよいよまぁ締めくって見たら何も残らなかっただけでは無くて、もう本当に絶食の元になるような、いうならば、布団牢に入らねばならん様な結果になってしまう。京都の竜安寺と云うお寺に、手水場にある、手洗いの石に丸い是位の高さのですね、それに中に四角う掘ってある、丸い中に丁度一文銭の様な形に掘ってある。 真ん中が四角に掘ってある。そしてそれに刻んであるのが、われ只足るを知ると云う字に読める様に書いてある。
真中の四角いのが口偏になっておる。どれでも上の方へこう吾を書くと吾れと云う事になる。左の方へ書いたら只と云う字になる。右の方へこう書いたら、知ると、云う字をかいたら下の方へ是と云う字を書いたら足ると云う事になる。仲良く考えたものだと思う。禅のまあ一つの奥義と云うても良いだろう思うですね。水の流れるに不足もない、只高い所から低い所に水が流れる様に、そう云う方。
それに不足はないと云うのである。食べ物が多い時には沢山頂く、少ない時には少しでも良い、其処に一つも不平もなければ不足もない。只われ足りるを知ると云う訳である。其処に満足した喜びがある。そう云う喜びを感じての日常生活、そう云う喜びを感じての私は食生活。其処には例えば沢山食べたとか、少なく食べたとか言った様な事でどうと云う事ではない、先程その様に申しました様に自分の気持ちの良い雰囲気の良い所であったら、五合一升飲んでも障らない。
けれども、それがいやな雰囲気の中であったら、一合の酒だっていわば頂かないと云う頂き方。例えば遊びに行くでも、お芝居ならお芝居を見るです、ああ今日のお芝居は許されておるなと云う。実感と云う答えなんかを出しながら、お芝居見物をする。是は確かに、私共昔まあお芝居なんか参りますとね、もう必ず家内は機嫌が悪くなるのですよ、行く時にはいそいそとして行ってから、そして面白い芝居を見てきてから、帰ってくる頃には、機嫌が悪くなってから。
どうして機嫌が悪くなるのか、こっちまで気分が悪くなる、と言った様な事が何時もでしたけどね。今から考えると、本当に許されて行ってなかったと思うです。今日は私は思うのに、許されて行っている時には、帰って来ても今日は愉快であった、面白かったと云うて帰ってくれる。それには全然さわらない。例えば、金を使っておっても、その金で、其の金が、マイナスになる様な事はない。
けれども行き掛けはいそいそと行っても帰りは、不平不足を言うて帰って来んならん様な行き方であったら、そう云う金の使い方をもし、しておったら、その金は必ずもう一つのいわば崩壊のして行く前提と云うか基を作っておる様なもの。と思うて私は間違いない。なら今日は大酒大食するは絶食の基なりと。只、是だけの事ですからけれどもこれは量ではないと云う事。と云う様な事を聞いて頂いた訳ですね。
どうぞ。